想いという漢字は、使い方がなんとなく分かるのですが、想うという漢字はどのような時に使うのでしょうか?思うばかり使ってしまいます。どんなときに使い分けるのか。
「想う」这个汉字的使用方法多多少少明白一些,但是在什么情况下可以使用它呢?一般情况下我们都会使用「思う」。这两个词汇要怎么区分呢。
日本語に取り込まれた「思」「想」は殆ど、同義語みたいになってしまいやかましい使い分けが無くなってしまった昨今です。
日语中的「思」和「想」现在基本上被当成是同义词,一般情况下不加以区分。
両者の字義を中国古代からの習慣から調べてみると以下のような違いが判りました。そっくり日本語に当てはめるのはいささか冒険かもしれませんが元の意義を把握しながら使い分ければピタッとハマった文章表現が可能になるんではないでしょうか。
从中国古代的习惯来考察这两者的字义,就能得到一下的差异。将它们原封不动地放入日语中去多多少少有一些冒险,如果掌握了它原本的意思再来区分使用的话,就能够准确地在文章中表现了。
「想う」
「希望が有るゆえにおもう」
(正应为有希望,我们才有念想)
「希望しておもう」
(怀抱希望)
「故人を追慕しておもう」
(追思故人)
「恋しくおもう」
(对某人心怀爱恋)
「おもい起こす」
(想起)
「推し量っておもう」
(推测)
「見込みがあっておもう」
(指望)
「想」の本来の字義は"希望"です。異字体として「冀」(キ・こいねがう)があります。
「想」原本的字义是“希望”。它还有另外一种文字表现形式是「冀」(希冀)。
「想う」はそれ単体で懐かしむような憧れるような焦がれるような感情が込められているのが分かります。だから逆に「嬉しいと想う」みたいな使い方はしません。重複してしまうからです。
「想う」中包含着怀念、憧憬、焦虑这些情感在内。所以我们一般不使用像「嬉しいと想う」(想着开心)这样的表达形式。因为这是一种情感词汇的重复运用。
「思う」
「深くおもう」
(沉思)
「考えておもう」
(思考)
「懐かしくおもう」
(感到怀念)
「慕っておもう」
(感到仰慕)
「故郷などを偲んで(しのんで)おもう」
(怀念故乡)
「思」の古代の漢字は"田"の部分が、四角マスの上に"点"が一つとその四角マスの中に"メ"で一字でした。日本語で言うところの"ひよめき""おどりこ""しんもん""そうもん"の意味です。生まれたばかりの赤ちゃんの頭蓋骨が完全に縫合し終わらないときに脈拍につれて動いて見える前頭と後頭の一部分のことを指します。骨と骨の隙間の部分です。
「思」在古代汉字中,“田”的部分在四个角上分别有一个点,另外方格中间是一个"メ"字。如果用日语来解释的话就表示“人性”、“舞者”、“心门”、“僧门”这样的意思。它指的是刚出生的婴儿,在头盖骨还没有完全缝合的时候随着脉搏跳动可以看见头部前后的一部分。也就是骨骼与骨骼之间的缝隙的部分。
「思」の下の"心"は心臓のことで、転じて"こころ"です。したがって「思」の字義は、『脳の奥深くでおもう』みたいな感じになるようです。
「思」下面的“心”指的是心脏,也就是日语中的"こころ"。因此可以得出,「思」的字义是“在脑海深处思考”这样的感觉。
両者を比較すると
比较二者
「想う」はなんかこう植物的な感じで詞的(poetic)ですね。
「想う」像是一种植物性的感官词汇(poetic)。
「思う」は「想う」よりも動物的な感じがします。
「思う」相比「想う」而言更多的是一种动物性的词汇。
つまり「思う」のほうがより人間(human)らしく、具体的な意思表示の感覚がします。
也就是说,「思う」更加充满人性,能够表达更为具体的意思。
どんなときに使い分けるのか
在什么情况下加以区分
小学校が懐かしく想う。小学校が懐かしいと思う。
怀念小学。小学让我感到很怀念。
日本の将来には明るさがあると想う。日本の将来は明るいと思う。
日本的未来是明亮的。我觉得日本的未来是明亮的。
ふるさとの母を想う。ふるさとの母を気遣って思う。
想到故乡的母亲。心中牵挂着故乡的母亲。
もう成功するんではないかと想う。もう成功したと思う。
想着是不是该成功了。我深信已经成功了。
来年には昇進すると想う。来年には昇進したいと思う。
觉得明年会升职。我希望明年能够升职。
我が子の将来を想う。我が子の将来を心配して思う。
遥想自己孩子们的未来。我担心着我孩子们的未来。
彼女は本当は綺麗だと想う。彼女は本当に綺麗だと思う。
她很漂亮。我心中觉得她很漂亮。